「活気」「繁盛」に彩られていた町- 台東町 PART1ー台東モノマチエリア探訪

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台東モノマチエリアは10の町で構成されています。一つひとつの町に個性があり、特徴があり、趣がある。このシリーズでは一つの町をクローズアップして、その歴史や魅力に迫ります。

さて、今回取り上げるのは「台東町」。旧町名「二長町」の1丁目、「竹町」の2丁目〜4丁目で構成される台東町はいまでこそ雑然とした印象を与えますが、かつては「活気」「繁盛」という言葉がふさわしいエリアでした。前編後編の2回に分けて台東町の今と昔に迫ります。

三度目の引っ越しで佐竹のお屋敷がやってきた

台東町を象徴する大きな存在といえば佐竹商店街をおいてほかにはありません。「日本で二番目に古い」佐竹商店街の歴史をおさらいしてみましょう。

戦争に入る前、昭和11年頃の佐竹商店街南口の光景。写真提供)佐竹商店街振興組合

その名前からわかるように、佐竹商店街には江戸時代、秋田県佐竹藩の上屋敷がありました。平成に元号が変わるまで佐竹商店街でお店を営んでいた方のお話によれば、佐竹のお屋敷は最初はJR神田駅近くにあったそうです。それが池之端に移り、三度目の引っ越しで現在の場所に移転しました。

ただ、佐竹のお屋敷といっても結局は徳川が持っている土地に過ぎません。そのため、明治に入ると官有地になり、明治12年にはお堀のそばの東京市の所有地と交換され、佐竹商店街のある場所は東京市の所有になりました。

それが変わったのは明治16年のこと。日本橋の熊谷吉兵衛さん他3名が連盟で東京市知事に貸し下げを願い出たのです。道路を整備し井戸も掘って、さまざまなところに又貸しをすると同時に、借り手にとって魅力的な土地にするため、見せ物小屋などの娯楽施設も誘致しました。こうしてこの場所には次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになりました。

娯楽の町、宵っ張りの町

佐竹商店街がほぼ現在の形になったのは明治20年頃。当時は、浄瑠璃座と呼ばれる小劇場や常設興行館の「竹葉館」が人気を集めていましたが、大正12年に起きた関東大震災で全焼してしまいます。

佐竹商店街はすぐに以前の活気を取り戻しましたが、娯楽の中心が映画に移り変わっていった時代を背景に、現在の台東3丁目に映画館「新東京」が誕生しました。その賑わいから「新東京」の前の通りは「新東京通り」と呼ばれていたほとです。

近隣の映画館も含めると映画館の数は5、6軒。これだけ映画館が集中していたエリアです。活気づかないわけがありません。

昭和11年~昭和12年の売り出しポスター。下部の「映画の夕」という文字に注目! 資料提供)佐竹商店街振興組合

職人が多い町ゆえ、みな仕事が終わると商店街に買い物に訪れ、賑わいは夜の9時、10時まで続きました。福引も夜10時までやっていたとか。そう、台東町は宵っ張りの町だったのです。

1957年頃の佐竹商店街。ネオンが印象的です。写真提供)佐竹商店街振興組合

人とぶつからずには歩けなかった佐竹商店街

戦争が始まると商店街は火が消えたように閑散となりましたが、昭和25年には物資の統制もなくなって晴れて営業再開。やがて高度経済成長時代が訪れます。

当時を知る方によれば景気が良くなるきっかけは朝鮮戦争にあったとか。日本は補給基地だったため、朝鮮戦争を機に一気に景気が上向き、モノが売れに売れる時代に突入します。佐竹商店街が一番賑わいを増したのは昭和30年代。店の数は160軒ほどあり、あまりに売上が増えてたために売上を勘定する専任の人を雇っている店もがあったそうです。大晦日にはあまりにも人が集中し、人とぶつからずには歩けない。そんな光景が繰り広げられていました。

高度経済成長時代の佐竹商店街。賑わいが伝わってきます。 写真提供)佐竹商店街振興組合

芝居小屋には行列ができ、人々は映画館に殺到し、仕事が終わると職人たちが佐竹商店街や、食料品中心の末広商店会(現在の台東町3丁目)で買い物に興じる日々。いまとなっては往時の活気を想像することは困難です。

とはいえ、佐竹商店街にもこれまでにはなかった新しいタイプのお店が少しずつ増えています。周辺にはマンションも増え、住民も増加しています。佐竹商店街を始め、台東町の新しい息吹に期待しましょう。

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